大分県竹田市 瀧廉太郎旧宅
大分県竹田市豊後竹田駅近く
入館料300円
瀧廉太郎が12才から14才までの2年半、多感な少年時代を過ごしたのがこの家です。
瀧家は代々日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老をつとめた名門で、
瀧廉太郎の父−吉弘は岡藩の家老をつとめた後、上京し、大久保利通・伊藤博文の右腕として中央で活躍した人でした。
明治24年、父−吉弘は大分県直入郡長に任命され、12月の半ば、廉太郎は家族とともに竹田に移りました。
その折、瀧一家に官舎としてあてがわれたのがこの家でした。
この家は、もともと岡藩主中川家の家臣をつとめた岩瀬家の由緒ある屋敷で、当時は300坪近い大きな侍屋敷でした。
当時の竹田は、岡藩の城下町、九州の小京都として、しっとりとした風情をたたえた、文化の香り高い町でした。
「遊芸の町」とも言われ、茶道、華道はもちろん、多くの人が謡曲、仕舞、三味線、琴などをたしなんでいました。
廉太郎は竹田高等小学校に通いながら、城下町のさまざまな響きや風景、地域の素晴らしい自然に囲まれ、
この竹田の町で音楽の道に進むことを決心したのです。 家の前の溝川や裏山の竹薮の響きを聞き、
芝居や謡曲の好きだった父親、ヴァイオリンをたしなんだ姉たちのいる家族と暮らしたこの家は、
廉太郎の感受性を豊かに育て、後に数々の素晴らしい音楽をつくりだす源の一つとなりました。
この旧宅では、廉太郎が聞いていたと思われる、当時の家や庭の音、竹田の待ちの響きを復元するいくつかの工夫をしています。
−廉太郎旧宅にある説明文より−


瀧廉太郎が12歳から明治27年(1894)に15歳で上京するまで暮らした屋敷が、現在の瀧廉太郎記念館です。

左、中) 記念館から歩いてすぐの所には廉太郎トンネルがあり、中に人が入るとセンサーで曲が流れるようになっています。
右)トンネルの横に井戸がありました。

竹田名物の「はら太」という和菓子屋さんです。
![]()